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イケマンホール
女児の成長と幸福を祈る雛人形

江戸初期の寛永期(一六二四~四四)、後水尾天皇の中宮・東福門院(徳川秀忠の娘)が
当時の文化人、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、狩野探幽、狩野山楽などの交遊を通じて、華やかな寛永文化を開花させました。雛祭りは、その中で、上巳の節供として催されるように
なったと推測されます。それが公家や大名へ、そして庶民へと広がっていったと思われます。
江戸期の五節供の行事が年々盛大に行われるようになったことから、それを彩る人形たちが
主役となっていきました。中でも上巳の節供(三月三日)、端午の節供(五月五日)、七夕の節供(七月七日)の三節供は、いろいろな種類の人形を生み、日本の人形文化を大きく育んでいきました。

雛いろいろ


祓いの行事の対象物であった「形代(かたしろ)」が「ひとがた」となり、天児・這子から男雛・女雛の源流となって・立雛形式が寛永期(一六二四~四四)に成立しました。雛人形には、鳥取の流し雛、建前雛(建築の建前の行事の時に大黒柱につける)、舟玉(和船の胴梁にある筒柱につける)、坐雛(縁起物などの用途に用いる)立雛のルーツとしての糸雛などがあります。
宮廷の雛
高さが十cmぐらいまでの小振りで上品、衣装の質も高く、縫製の技術が最高級な雛人形は、
宮廷で愛玩されたものと推測されます。

公家雛と大名雛
公家の雛とは宝暦・明和年間(一七五一~七七)の頃に有職故美に基づいて正しく考証された有職雛のことをいいます。公服の束帯、平服の直衣、直衣を簡略化した子直衣、外出時の狩衣などのことを身分や年齢・季節の変化に応じて適合した公家の風俗を正しく表現しています。そして、朝廷の衣紋道を携わる山科家、高倉家の監修により製作されたものを山科雛、高倉雛と称しています。束帯姿の次郎左衛門雛や立雛とともに、公家や大名家に普及しました。なかでも大名家の立雛は、金箔が多く使われ、華美な仕立てものが用いられています。

小さな小さな雛たち
有職雛などを飾る雛祭りが盛んになってくると、象牙で作った牙首の雛人形や大変小さな芥子雛が現れてくるようになります。とくに、江戸浅草十軒町にあった七沢屋の芥子雛がたいへん重宝がられ、江戸城大奥でも愛玩されていました。雛籠は、嫁入り先に雛人形を届ける際に、前もって雛籠が行き、雛人形のお届けを告げるセレモニーに用いられました。

町雛 (御所文化への憧れ)
町屋で飾られる町雛は、上層社会の文化を受けて、憧れと模倣から出発しました。坐雛を飾ることは、おそらく元禄期(一六八八~一七〇四)頃に「寛永雛」と呼ばれる公家雛からはじまり、宝暦年間(一七五一~六四)頃に町雛の「享保雛」が生まれたと推測されます。庶民の心意気は隣家に負けずということで、雛もどんどん大きくなっていきました。そのため幕府の奢侈禁止令にふれ、人形の大きさはまた小さくなりました。明和年間(一七六四~七一)になると有職雛からヒントを得た、リアルな顔の「古今雛」が生まれました。後世、町雛の主流となって、今日の雛祭りの源流となりました。本物を正確に縮尺した台所用品は町家の雛道具として売り出されました。とても極め細かくつくられています。

田舎雛
京の都や大坂、江戸における享保雛や古今雛の流行は、幕末から明治期にかけて地方まで浸透するようになり、各地で衣装雛が作られるようになりました。それが「田舎雛」であり、いずれの雛も垢抜けない素朴さが漂っています。

土雛
三月三日の雛祭りが女児のお祭りとして日本国内に浸透したのは、武家や農家の副業として、土雛の生産が容易にできたことがあげられます。江戸期の東北地方の土人形は享保雛などを写したものもあり、ローカルな味わいを醸しています。

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