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イケマンホール
郷土人形の歴史    2001年2月10日

郷土人形の母胎となったものは何でしょう。
第一に挙げられるものは、手びねりで作った「縁起物」です。
たとえば、犬をかたどったものは犬のお産が軽いことから安産を、土鈴は果実が鈴なりになることを願って作られたものです。そのほか、泥塔・籾塔・千体地蔵や観音などの型物、でんぼやつぼつぼの日用品などに加えて、瓦や陶器が基になっています。そして、信仰の対象となった恵比寿や大黒などの福神や天神(菅原道真)・水神(柿本人麻呂)・狐・牛・犬などの俗信的なものは手びねりや千体地蔵などの型物の技術から自然発生的に生まれました。それは、京の入り口、伏見港に近い深草で発生したと考えられています。深草は、上質の瓦の産地であり、伏見稲荷の繁栄とあいまって全国に分布しました。
当地で、郷土人形が作りはじめられたのは、徳川氏が政権を取り、封建制度が確立して、京の都がやや安定し、庶民の生活も落ち着きを取り戻した、十七世紀の中頃と考えられます。
郷土人形が作られた背景には、切実な願いや祈り、そして、生活の安定などを求める庶民の限りない思いがあったと考えられます。それを形にしたのが「縁起物」です。さまざまな形の素焼きや陶製の縁起物が作られました。京の郷土人形は「伏見人形」として伏見稲荷社などに参拝する人々の京みやげとしても売られるようになりました。

その後、鬼瓦や留置瓦の技術が広用され、公卿や大名の間で愛でられていた上手人形(御所人形・衣裳人形・風俗嵯峨人形)のかわりに、安価な大衆品として、童子物や節供物、床飾り用の郷土人形が伏見において作られました。また、人形作りが各地に伝播すると、各大名が殖産のために、鬼瓦職人を召し抱え、人形型を作らすようになりました。
江戸後期に大蔵永常の「広益国産考」が出版されると、郷土人形がさらに普及し、その土地の風俗習慣にあったものが作られるだけでなく、錦絵や農村歌舞伎に見られる芝居風景なども取り入れられるようになりました。
「伏見人形」は御所人形の姿を写したものが多く、全体的に端正で、生真面目なものに対して、各地の郷土人形は衣裳人形や風俗嵯峨人形の影響を受けたものが多く見られます。今日の博多人形も、これらの上手人形の残照が多く残っています。
郷土人形の質は、江戸期~明治初期のものがレベル高く、量的には明治中期~後期に一番多く生産されています。そして、大正期~昭和初期になって、庶民生活が豊かになってくると、衣裳雛や節供人形にその座を渡し、衰退の道を辿ることになります。
江戸期の人形が秀れているのは、「堤人形」(宮城県仙台市)や「相良人形」(山形県米沢)などの郷土人形に見られるように、作者が武家であったことが挙げられます。武士は、一般的な教養があり、参勤交代などで江戸の文物を見る機会があり、禁裏護衛などで京都の文化も会得しているため、そこから生まれる人形にも造り手の教養が反映していたといえます。また、金山や銀山の所在地の郷土人形も土地の豊かさがもたらす文化交流により秀れたものが多くあります。たとえば、石見銀山の近くの「長浜人形」(島根県浜田市)や鉄の産地である「花巻人形」(岩手県花巻市)などの郷土人形です。また江戸の「今戸人形」(東京都台東区)は郷土人形の中に江戸っ子的な洒落っ気が出ていますし、大阪の「練人形」はユーモラスがいっぱいです。
文化は人の交流から生まれてくるものです。摂津(大阪)・和泉(大阪)・紀州(和歌山)・讃岐(香川)の隣りあう旧四ヶ国における交流の証を例にとると、共通する郷土人形が挙げられます。これは、安産を象徴とする犬と鯛などをミックスした嫁入り人形です。
また、このような郷土人形における共通性は、信仰の流布とも関係があります。たとえば、出羽三山の信仰地、北関東から出羽三山にいたる街道には祭り商人の影響かもしれませんが、江戸の今戸人形の流れを汲む人形があります。また、鳥取県西部の大山信仰地では節供に農業の神として大きな天神人形を飾ります。これは、はるか道後温泉の松山から山形県酒田市まで見られます。岐阜県・奥美濃では、雛祭りの雛壇の上段に福助を飾ります。
江戸期~明治初期の郷土人形は、庶民が節供の時に飾る雛人形としての用途で作られました。これらは、地方独特の美しさを有していますが、一般にあまり高く評価されていません。

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